目次
リリーとの出会い
自分が小学生の頃、はじめて犬を迎えた。
白い毛の女の子、リリー。
それまでペットを飼ったことはなかった。
おばあちゃんの家に猫がいて、たまに撫でるくらいだった。
ある日、母に言われた。
「近所で子犬が生まれたから見に行っておいで」
弟と二人で見に行くと、段ボール箱の中に三匹の子犬がいた。
茶色が二匹と、白が一匹。
白い子だけが女の子だった。
まだ目もはっきりしていないはずなのに、
その白い子だけが、なぜかこちらを見ているような気がした。
迷いはなかった。
気がついたら、その子を抱えて帰っていた。
名前をどうするか迷っていると母が、
「名前はあんたが決めなさい」そう言われたので、直感で決めた。
リリー。
理由は覚えていない。
ただ、その名前しかない気がした。
胸の軋み
リリーは明るい子だった。
よく走り、よく鳴き、よく失敗した。
廊下で何度もおしっこをしてしまい、
そのたびに叱られていた。
母に首をつかまれ、
失敗した場所に顔を押し付けられる。
そのときの、あの声。
高くて、細くて、
どこか訴えるような鳴き声だった。
あの声を聞くたびに、
胸の奥がキューっと軋むような感覚になった。
でも、自分は何もできなかった。
ただ見ていることしかできなかった。
リリーの歌声
やがてリリーは、家の中からベランダへと追いやられていった。
最初は「少しの間だけ」だったはずが、
気づけばそこが当たり前になっていた。
洗濯物を干すときだけ、
家族がベランダに出る。
その時間だけが、リリーにとって人とつながる時間だった。
そのときのリリーは、いつも嬉しそうだった。
足元を行ったり来たりして、
しっぽを大きく振っていた。
でも、あの子はずっとひとりでした・・・。

ある日、母が鼻歌を歌いながら洗濯物を干していた。
風に揺れるシャツの間で、
明るい調子の声が流れていた。
その横で、リリーは動きを止めた。
母の方を見て、
ゆっくりと顔を上げた。
そして、小さく声を出した。
一度だけではなかった。
鼻歌に重なるように、もう一度。
短くて、細い声だった。
吠えるというより、
どこか、合わせているような声だった。
母は気づいていなかった。
そのまま同じ調子で、鼻歌を続けていた。
そしてリリーは空を見上げ、雄叫びをあげた。
まるでリリーも、母と一緒に歌っているようだった。
あの光景だけは、今でも忘れられない。

幽閉
その後、リリーはさらに居場所を失った。
店のトイレの横にある、中庭へと移された。
四方を壁に囲まれた、小さな場所。
空だけが見えていた。
人が来るのは、トイレを使うときだけ。
扉が開く音がすると、
リリーはすぐに立ち上がった。
しっぽを振って、近づこうとする。
でも、その時間はほんの一瞬で終わる。
扉が閉まると、またひとりになる。
その繰り返しだった。
ある日、酔ったおじさんがやってきた。
足元もおぼつかないまま、
リリーに手を伸ばした。
次の瞬間、短い声がして、
おじさんは手を引いた。
あとから「噛んだ」と言われた。
それで、すべてが決まった。
誰も来ない場所
中庭にもいられなくなり、
リリーは店の奥の作業場へ移された。
ほとんど人の来ない場所だった。
昼でも薄暗く、
少しだけ埃のにおいがしていた。
リリーは、そこで何年も過ごした。
その頃の自分は、
だんだんリリーのところへ行かなくなっていた。
見に行けば、何かを感じてしまうから。
たぶん、無意識に避けていた。
それでも、たまに気になって、
ミルクを持っていった。
器を差し出すと、
リリーは迷いなく顔を近づけた。
夢中で飲んだ。
あのときの音。
舌の動き。
目の表情。
他のことは曖昧でも、
あの瞬間だけは、はっきり残っている。

居場所なんてない
店を閉めることになり、
リリーはその場所も失った。
仮の場所に移された夜、
リリーは一晩中鳴き続けた。
暗い作業場が、
リリーにとっての居場所だったのだと思う。
それが、突然なくなった。
外に繋がれたまま、
ただ鳴き続けていた。
次の日、近所から苦情が来た。
その翌日、父に言われた。
「保健所に連れていく。仕方ない」
その言葉を聞いた瞬間、
何かが切れた。
それだけは絶対に許せないと思った。
じゃあ自分もこの家にはいられない。
リリーと一緒に出ていく。
そう言って、荷物をまとめた。
多くはなかった。
それでも、抱えられるだけ持って、
リリーと一緒に家を出た。
救いの手
転がり込んだのは、
世話になっていた理容店のおじさんの家だった。
事情を話すと、おじさんはため息をついた。
それでも、何も言わずに受け入れてくれた。
リリーも一緒だった。
また一緒に暮らせるようになった。
おじさんは、自分がいないときでも、
代わりにリリーの散歩をしてくれていた。
あのとき、救われたのは、
たぶん自分のほうだった。
そこから2年ほど、そのおじさんの家で、
リリーと一緒に暮らした。
最初はリリーも鳴いていたけど、
おじさんや近所の人の理解もあって、
しばらくするとリリーは鳴かなくなった。
そこが自分の居場所だと思ってくれたのかもしれない。
リリーとの最後、そして後悔
ある日、家に帰ると、
リリーが亡くなったと聞かされた。
急いで向かうと、
ダンボールの中に花を添えられたリリーがいた。
苦しそうな顔だった。
突然、発作のように苦しみ、
そのまま亡くなったらしい。
何をしていいのかわからなかった。
ただ立っていた。
人間の火葬場に電話をかけた。
「入口に置いておいてください」と言われた。
その通りにした。
ダンボールを置いて、
その場から離れた。
そのままリリーのほうを振り返らず、
泣きながら、とにかく走った。
涙が止まらなくて、どうしようもないくらい泣いた。
それが最後だった。
あれから27年以上が経った。
それでも、リリーのことを思い出すと、
いまでも涙が出る。
もう何十年も前のことなのに、もしかしたら、
まだあの火葬場の入り口に行けば、
リリーはそこにいるんじゃないかと、
そういう気持ちになることがある。

ペットロスのまま、生きていく
リリーの写真は一枚も残っていない。
だから、一度、思い出そうとした。
白い毛に、茶色のぶち。
こんな感じだったかと、何度も想いを重ねた。
形になったとき、
画面に映ったリリーを見て、涙が止まらなかった。
ああ、消えていなかったんだと思った。
いま家には、とわとるりがいる。
リリーにしてあげられなかったことを、
全部この子たちにしている。
それで許されるとは思っていない。
でも、そうするしかなかった。
リリーへの想い、ペットロスは、ずっと消えない。
でもきっと消えないままでいい。
それが、自分にとっての償いで、
リリーへの供養だと思っている。
リリーのことは、これからも忘れない。
心の中でリリーのこと、ずっと大切にするよ。
ごめんね、リリー… ありがとう、リリー…。



