【第2話】 草津 – 泣くことをやめた猫
バスは、湖に沿って静かに走っていました。
夜のびわ湖は、浜大津よりも少し暗く、少し広く見えます。
窓の外に流れる街灯が、とわの目に細い線を残していきました。
「……まだ、虹は出てないね」
とわが小さく言うと、るりは窓の外を見たまま、うなずくだけでした。
「最初から出るわけないよね。
でもさ……」
とわは言葉を探します。
「もし、出たとしても、
“あっ、これだ!”って、すぐわかるのかな」
るりは少し考えてから、短く答えました。
「わかると思う」
「なんで?」
「違うから」
それだけでした。
⸻

バスが草津で止まりました。
夜の湖岸公園には、人の気配がほとんどありません。
街灯の下、ベンチにひとり、猫が座っていました。
灰色の毛並みで、背筋を伸ばし、前を向いています。
泣いてはいません。
動きもしません。
でも、とわには、なぜかすぐに分かりました。
「……あの子、泣いてないだけだ」
るりは何も言わず、バスを降ります。
とわも後を追いました。
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「こんばんは」
とわが声をかけると、猫はゆっくり振り向きました。
「こんばんは」
声は落ち着いていて、大人びていました。
「ここで、何してるの?」
「待っている」
「誰かを?」
猫は一瞬、答えに詰まりました。
「……いや。
もう、待ってはいない」
その言葉は、きれいに整いすぎていて、
逆に、とわの胸をちくりと刺しました。
「泣いてないんだね」
とわが言うと、猫は少しだけ目を細めました。
「泣くのは、終わったから」
「終わった?」
「泣いても、戻らない。
だから、泣くのをやめた」
とわは、その言葉を否定できませんでした。
とても正しく聞こえたからです。
でも。
「……苦しくない?」
その問いに、猫は答えませんでした。
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そのとき、湖の向こうで、ふっと光が立ちました。
噴水が上がり、水しぶきに、淡い虹が浮かびます。
夜の虹は、昼よりも薄く、
少し頼りなく見えました。
「虹だ……!」
とわの声が弾みます。
「もしかして、これ……」
とわは一歩、前に出ました。
胸の奥が、きゅっと締まります。
でも、見つめれば見つめるほど、
何かが違いました。
「……ちがう」
声に出した瞬間、とわは少し驚きました。
前よりも、はっきり分かったからです。
猫は虹を見つめながら、ぽつりと言いました。
「きれいだね」
「うん。きれい」
「でも、すぐ消える」
虹は、ほんとうに、ゆっくりと消えていきました。
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「泣かないって、強いと思ってた」
猫が言います。
「でも……
泣かなくなったら、
何も動かなくなった」
とわは、胸の奥が熱くなるのを感じました。
「泣くの、やめなくてもいいんじゃない?」
猫は、少し困った顔をしました。
「泣いたら、また始まる」
「うん」
とわはうなずきます。
「でも、始まらないと、
終わらないままなんだと思う」
猫の目が、わずかに揺れました。
⸻
るりが、初めて口を開きました。
「泣かない虹もある」
猫ととわが、るりを見ます。
「でも」
るりは続けます。
「泣いたあとに出る虹は、
少し、違う」
それ以上は、言いませんでした。
⸻
バスの時間が来ました。
猫は、ベンチから立ち上がりません。
「行くの?」
とわが聞くと、猫は首を横に振ります。
「今日は、ここでいい」
「そっか」
とわは少し迷ってから、言いました。
「また、泣いてもいいと思うよ」
猫は、何も答えませんでした。
でも、とわが去るとき、
その背中は、ほんの少しだけ丸くなっていました。
⸻

バスが動き出します。
とわは窓越しに、湖を見ながら言いました。
「虹、出たのにね」
るりは答えます。
「出たね」
「でも、あの子のじゃなかった」
「うん」
とわは、前よりも落ち込んでいませんでした。
「でもさ」
とわは、少しだけ胸を張ります。
「泣いていいって、
言えた気がする」
るりは、短く言いました。
「進んでる」
バスは、次の町へ向かって走り出します。
虹は消えても、
とわの中に、何かが残っていました。
それは、まだ答えではありません。
でも、確かに、
次の虹を見る目でした。
★
第3話へ続く



