第1話 浜大津 - 出発の夜
その夜のびわ湖は、音を立てない水でした。
風はあるのに波はなく、月の光だけが、湖面に細い道をつくっていました。
浜大津の港に、古い路線バスが一台、静かに止まっていました。
エンジンはかかっているのに、急かす気配はありません。
まるで、来る人を待っているようでした。
とわは、バスの前で立ち止まりました。

トイプードルの小さな体に、夜の空気は少し冷たくて、でも嫌ではありませんでした。
「……ここで、よかったのかな」
誰に聞いたわけでもなく、ぽつりとこぼれた言葉でした。
その隣に、るりがいました。
黒柴の女の子は、座ったまま湖を見ています。
とわの問いに、すぐには答えません。
「浜大津の港からね」
とわは、もう一度だけ、その約束を思い出しました。
―― 私が出す虹を探して、会いに来て。
声は、はっきり覚えているのに、
姿はもう、思い出の中にしかありません。
「虹ってさ……」
とわは言いかけて、やめました。
“どんな虹?”
“いつの虹?”
“本当にあるの?”
そんな言葉を並べても、答えは返ってこないことを、とわは知っていました。
るりは、ゆっくり立ち上がって、とわの隣に並びました。
「行ってみよ」
それだけでした。
「見つからなかったら?」
とわが聞くと、るりは少しだけ首をかしげます。
「それでも、戻ってこれる」
るりは、浜大津の港を振り返りました。
灯りはさっきと同じように、そこにあります。
「このバス、一周して、ここに戻るんだって」
「……知ってたの?」
「ううん。今、そう思っただけ」
とわは、少し笑いました。
るりは、よくこういうことを言います。
根拠はないのに、不思議と間違っていない言葉。
バスの扉が、音もなく開きました。
運転席には、誰がいるのか分かりません。
でも怖くはありませんでした。
「草津、守山、栗東……」
とわは、行き先表示を声に出して読みました。
「ずいぶん、遠いね」
「遠くないよ」
るりは言います。
「湖を一周するだけ」
“だけ”という言葉に、とわは少し救われた気がしました。
とわは、最後にもう一度だけ、湖を見ました。
今は、虹なんてありません。
夜の湖は、ただ静かで、何も約束していないように見えます。
それでも。
「……行こう、るり」
とわが言うと、るりは何も言わず、先にバスに乗り込みました。
とわも、その後に続きます。
扉が閉まると、バスはゆっくりと動き出しました。
浜大津の灯りが、少しずつ遠ざかっていきます。
とわは、座席に座って、胸の奥にあるものを、そっと確かめました。
悲しみは、まだそこにあります。
消えてはいません。
でも今夜、とわはそれを抱えたまま、旅に出ます。
――虹を探すために。
――約束を、忘れなかったことを伝えるために。
バスは、びわ湖の縁をなぞるように走り出しました。
その旅が、何を連れて帰ってくるのか、
とわも、るりも、まだ知りません。
ただ、確かなのはひとつだけ。
この夜、ふたりは、ちゃんと“生きるほう”を選んだ
――それだけでした。
★
第2話へつづく



